昭和40年12月5日 夜の御理解



例によって、栄四郎と私の、問答ですけれども、お風呂入っとりましたら、もう、上がろうと思いよったら、表をトントントンとやってから、やってまいりました。ああ、まに合うてよかった。とこう言うてから。「何が、間に合うてよかった」「お父さんの背中をすらせて頂く」ち言う(うはっはっは)げな。「もう、お父さん、すっとるとや」「それでも、これは御用じゃから、さしてもらう」とか言うてからまた、すってくれるんです。自分は、その、頭を今日はつんでもらったらしいんです。だから、頭こらしょっと、やっぱりそんなら、おとさんの、頭、一丁洗うてやろち言うてから、私が、頭、捕まえとって、たわしで一生懸命みがいて私が、押さえつけてから、洗ってやったんです。「どうね、スッキリしたろうが」ち。もう、本当にね、毎日毎日、これがその、お風呂入りよるけれども、こんなに汚れとる。だから、頭つんだ時ぐらいは、もう、スッキリと洗わにゃ。そしたら、言うことが良かっですもん。「お父さんは、心も毎日洗わにゃ、スッキリせん」ち、いおうと思いよっとじゃろがち。(うわっはっは)もう、私が(笑いながら)そげん言おうと思いよることを、分かってです。「ね」。皆さんも御理解頂きながら、ああ、先生が、また磨け、また改まれて、言うて、分かってるんです。「ね」。しかも、そのスッキリするということも、良いことも分かってるです。分かっておって、ほんなら、スッキリしない問題を何時もこれに持っておるということがです。「ね」。いわば、洗い不足であり、清まり不足であるということを、本気で、悟らなければいけんと私は思うですねえ。
今日、御祈念の後は、今日は日曜日でございましたから、美登里会の方達も、特別奉唱の、集いでございますから、御祈念でございます。丁度その、御祈念に間に合ったと言うてその、熊本から、今日は、熊本から次々と沢山のお参りがあったんですが、そのなかの一人の方です。それがその、今日の、例えば、私思うんですけれども、美登里会の方達に頂く御理解は何時も、本当にテープにとっときたいごたるとです、何時も。それは、どれだけ皆がテープに先生方がとらんとは、何時も、不思議に思うくらいですけれども、何時も取りませんです。私は、あの雰囲気と、あの御理解を、今頂こうと思うても、もう、いただけんです。ま、それが、いわば、またとない御理解なんです。今まで私が、説いたことのない御理解なんです。なぜって、私が、皆さんに頼むという御理解なんですから。今までそんなことは、なかったでしょうが。「ね」。私が、ここ二、三日つくづく感じることなんですけれども、例えて言うならば、お母さんしっかりやってくれよと。「ね」。皆さんも、こうやって一生懸命だから、家族のものも、一生懸命にならにゃいかんよと。おかあさん、お前も、一丁頼むぞと、こう。お父さん、あんたそげん言いなさるばってん、私は、わたしで、勝手にこげん御用のありますけんと、こう。例えば言い訳をすると致しますならばです。私は、必ず、ほんなら良か、お前に頼まんと、言うのが私の行き方だった。信者の皆さんの上にでも、ほんなら、同じことである。「ね」。私は、神様のことでも、あんたどんに頼まん。頼まなかったから、あれが成就しない、これが、叶わなかったと、そげなこつは問題じゃ無か。というのが、私の行き方なんです。もう、本当に、この、十二月の一日の朝の御理解を思い。十二月のお月次祭の御理解を思い、本当に神様が、切々としてですたい。「ね」。この十二月という締め括りの月を、どうして、締め括っていこうかと、いよいよ、自分の一年間の信心を、つまびらかにさして貰う。出来ないところは、混ぜてでも、十二月のいわば、締め括りをさせてもらわなければならんから、せめてこの、十二月、一月だけでも、頑張らせてもらおうと、といったような事をあんなに、申しましたけれども、それに、ほんなら、おうと応えて、信心をしておるといったような方達を見抜けない。なかに、昨日でした。北野の、秋山さんが、私は、御理解の中に、兎に角、それは、全然意味の違うことですけれど、頼むという言葉が、その、御理解の中に出てきたんですね。あの、その、説いておるうちに。その時その、頼むという言葉が、大概心に響いたらしいんです。そして、朝の御祈念にお参りしたい、朝の御祈念にお参りしたいと、「ね」。せめて、御造営のことについてのお参りがしたいと、こう思うておりますけれども、あさ、早く起きて、ガタガタ致しますと、どうしても、主人が嫌うとこう言う。「ね」。あとから、ゆっくり参りゃ良いじゃないかと言うと。「ね」。ですから、心の中じゃ、朝の御祈念に参りたいけれども、お参りが出来んと、こう思うとったから、これは、教会に行ってもう一遍、お父さんに一つ、実意を持って頼もうと思った。その、実意を持って、頼もうと思ったら、何か知らんけれども、大変こう、有り難かったとこういうわけですね。今日も改めて、今日は、お父さん。日曜ですから、朝ここに出て来とりましたら、今日は、本気で、一つ実意になって、そのことをして頂きたいとこう言うておるんですね。私も、ここ二、三日それを、こう思うんです。例えば、ほんなら、家内がです。それでも、お父さん、私は、勝手のごつして、こうやって、御用があるから、ああですから、こうですからと。いうなら、ほんならお前に、頼まんと言うような気持ち。そして、思うことは、私が、しっかりすりゃ良い。私が、しっかり信心させてもらえば良い、修行さしてもらえば良い、というふうにこう思うて来たのであるけれども、ここんところは、そうでもあろうけれども、「おかあさん、頼む」ということにならなければ、いけないと私は最近感じておるんです。そのことを、今日、私、皆さんに聞いてもらったんです。
それも、昨夜、私、御造営のことについての、御願いをさせて頂きよりましたら、あー、水晶の宮ということを頂きましたですね。水晶というのがあるでしょう。次に、横に並べて、大坪総一郎とこう、字で頂いたんです。「ね」。水晶の宮ということはです。あの、水晶というのが、どこの彫刻屋がです。何処の、誰がです、あれを、あんなに見事に、作るあげたか、彫刻をしたかということ。何処の誰でもない。はい。あれは、天地の働きだろうと。何時の間に、例えば、椛目の御造営でもそうです。「ね」。皆に頼まん。本当に神様の、御神意のままにです。忽然として合楽の地にです。椛目のあの、今度の御造営が、出来上がるということはないと。「ね」。だから、それだけでは、値打ちはないということ。教祖の神様でも、天地の親神様からご依頼を受けられた。「ね」。神を助けると思うて、その方針だと思うて、欲を離して、神を助けてくれいと言うて頼んでおられる。そこに、初めて、金光教のあいよかけよの道というのが生まれたんだと。また、そこに、あいよかけよの道でです。神様おかげ頂きました。お前達、そのお、神も助かったと。「ね」。やはり、手を下げてでも頼ませて頂いてです、頼んだものも助かりゃ、頼まれたものも助かるという道なのだから、これは、例えば、私の感情で、ほんなら頼まんぞといったら。ただ、俺がしっかりしさえすりゃ良いと。そこは見事ですけれども、それだけではいけんということ。やはり、手を突いてでも、子供達にでもです。しっかり頼むぞと。と、頼ませて頂くことが、その、頼みに来ることに、応えてくれることによって、子供も助かれば、頼んだところの、父親も助かるということになる。もう、黙って、「ね」。もう、兎に角、私が、信心さえしていきゃいいと、もう、言うちゃならんと。「ね」。そら、口上をいやあ言うちゃならん。けど、頼むことは、実意を持って、頼まにゃいけんということです。この際、一家中が、勢を揃えて信心しなければ、何時するかと。「ね」。ここんところを、しっかりやろうぞと。「ね」。お母さん頼んだぞ。「ね」。子供達も頼んだぞとこう。例えば、中心になる者が、頼ませて頂くところにです。例えば、教祖の神様じゃないですけれども、そのことを、いわば、素直に、理屈を言わずに、うけたまわって、お道の信心が、開けてきたようにです。そういうような話を、私、今日は、その話を、本当に、テープに取っておいて、皆さんに聞いてもらいたいような思いだった。ま、その程度のことしか話ませんですけれども、そういう御理解を頂かせていただいたその、熊本から参ってきておる婦人が言うのですよ。もう、先生、今日は、広大なおかげを頂きました。実は、最近娘が、大体信心があってございますけれど、この頃、妙なその、ことを言うたつです。まあ、そげんあんた、椛目までも参らんでんち言うたごたるふうなことを言うというわけです。「ね」。で、昨夜は、主人に話しましたけれど、主人も、心を許してくれましたから、お参りさせて頂きましたけれども、子供が、そげん、わざわざ椛目までもという様な事を申しますから、「ね」。そのことが、どうもこれに、スッキリしなかったとこういうです、お参りしても。今度帰ってそのことを、頼もうと思ったら、スッキリしたとこういう。「ね」。そのためには、ただ、頼んだだけじゃいかん。ここへ、一修行させていただいても、いわゆる、実意をもって、たのませていただこうという、そこにです。私は、本当のことが、成就していく。いわば、頼んだものも、頼まれたものも助かって行く道というのが、開けてくるというようなことを、思うんですけれども、そういうような、頼めばです。実意を持って、頼めば、スッキリするような問題がです。「ね」。ただ、頼まんで、神ながらに、神様にこちらが、打ち向こうてさえ行けばよいと、本当に、打ち向かい方ができれば、それで良いでしょう。そこが、生身です。「ね」。ですから、そこが、スッキリしないならば、私は、本当に、実意を持って、手を就いてでも、頼むことが、本当じゃなかろうかとこう思うですね。そして、その、頼みを聞いてくれるものも、頼んだものもおかげを頂いて行こうというところにです。「ね」。ほんなら、御造営のことでも、そうでございます。「ね」。水晶の宮と。「ね」。水晶の宮ではいけん。大坪総一郎でなければいけんと。大きい坪に、総てを一つにする。今日のその、御理解の中にも、総、総意かね。総ての、心ということです。それから、総ての何とかと、その、色々なことを頂いたんですけれどもですね。例えば、椛目の、合楽のあの、聖地にです。「ね」。皆の、皆の真心がです、皆の力がです、ああ、総意、総力と頂きますね。総ての力を、あすこに集めて、そして、水晶の宮、いや、神様の働きと、私共との一生懸命の思いとが、一つになって、頼み、頼まれて、出来上がるという、御造営でなければならないと頂いたんですけれどね。これ、今晩、壮年部会の人達に対しても、同じ様なことが言えると思うんですよね。どうでも、やはり、椛目の、いわゆる、壮年部といえば、年配の上から、何から言うても、実力の上から言うても、やはり、中心にならなければいけません。「ね」。ですから、どうでも一つ、神様が、大坪総一郎が頼んでおると、というたのではなくてです。大坪総一郎を通して、金光大神が天地の親神様が頼んでござるという、思いにならしてもろうて、それに、ハイ。承知いたしましたとこう、それに応えて、立たせて頂けれる、信心こそですね、いよいよ素直な信心というものが、ま、必要だということになってくるじゃないでしょうか。「ネ」。そこに、私は、この、おたがい、頼むものも、頼まれるものも、スッキリとしたおかげを頂きたいと、いう風に、ま、念願しているのでございます。どうぞよろしく、おかげを頂きますように。